Book Lounge
2020.5.19

#006-1 現代経済学の直観的方法

長沼 伸一郎(著)

目次

    Book Lounge #006

    資本主義の本質をつかむ経済書

    33年前にベストセラーとなり、理系の名著として読み継がれてきた『物理数学の直感的方法』の著者、長沼 伸一郎氏による現代経済学の本です。
    その内容は、1987年、著者が26歳の時に書かれた本の「あとがき」で予告されていた経済についての話で、そのことからも本書が著者の長年にわたる研究の集大成であることがうかがえます。(450ページにおよぶ大著!)

    本書の魅力は何といってもその独自の「直観的方法」にあります。
    石川 善樹氏が『問い続ける力』という名著の中で、長沼氏へのインタビューを通じてその秘密に迫っていますので、これを参考にしながら「直観的方法」の魅力をご紹介したいと思います。
    長沼氏によると、

    本質を把握するためには科学と戦略の二極をおさえておくことが重要です。

    サイエンスとアートではなく戦略というところがみそです。
    なぜ戦略なのかというと、長沼氏にとっての直観が戦略家の直観と似ているからなのです。
    「戦略家の仕事って、重心を発見することなんですよ。ここを攻めればいいじゃないかという一点を見つけ出したら、後のことは参謀幕僚に任せてしまう。その重心を見つけて攻めるのが本当の名将なんですよね。」
    この「重心」という概念はクラウゼヴィッツの『戦争論』に出てきます。
    「クラウゼヴィッツの場合、この戦争の重心は軍隊か、首都かという話がよく出てくるんです。要するに、首都を攻め落とすことがこの戦争を終わらせることになるのか。それとも、軍隊を撃破することが戦争を終えることになるのか。たとえば、ナポレオンはロシア軍を放ったまま首都のモスクワに入ってしまった。重心は軍隊にあったのに、首都に入ってしまったから重心を取り逃がして、結局全体がガタガタになったみたいなことを言ってるんですよね。」
    これが、直観と戦略の接点です。

    では、「方法」についてはどうでしょうか。
    「今まで理系の人がほとんど論じてこなかったことなんですけれど、リデル=ハートという軍事評論家が、直接的アプローチと間接的アプローチという概念を提唱したんですよね。例えば、城があったら、とにかくそれを力攻めにするのが直接的アプローチです。一方、間接的アプローチは、この城を攻めても落ちないことがわかった時、この城があることで相手はどういうメリットを得ているのかと考える。それで、城はふもとの街を守るためにつくられたんだということがわかれば、街を先に落としちゃえば、この城は存在意義がなくなっちゃうわけじゃないですか。だから、ふもとの街を落とすことで、間接的に城の存在価値を失わせて勝つのが間接的アプローチという方法です。」
    「リデル=ハートは、昔の戦争を何百も分析して、直接的アプローチで勝ったものと、間接的アプローチで勝ったものを数え上げたんですね。そうしたら、直接的アプローチだと、ほとんど引き分けに近いものしかなかった。本当に勝ったといえる事例のほとんどは、間接的アプローチによるものだったということが明らかになっているんです。」
    長沼氏は、同じことが実は科学の世界でも起こっていると言います。
    ある方程式が解けないと言っている時は、ほとんどが直接的アプローチです。
    大きな成果を挙げているケースは、ほとんどが間接的アプローチを使っているのです。
    このことについて石川氏が質問します。

    石川:ある人は城しか見ていないんだけど、別の人は街まで見ている。その違いはどこにあるんでしょうね。

    長沼:直接的アプローチになっているときは、攻め方がマニュアル化されているんですね。マニュアル本通りの経路から行くんだけど、現実はマニュアルと違うので、行ってみたら食い止められてしまう。間接的アプローチは、自分で全部調べるからできるんです。こっちの道も実は通れるんだというのは、自分で調べないとわからないわけなんですよね。

    石川:だから、試行錯誤の最中は、ものすごい非効率に思えるわけですよね。なかなか着かないし。人って、見たいものを見る傾向があるから、そうでない道を探す場合、頭の中では何が起きているんですかね。

    長沼:一種の違和感だと思うんですよ。なぜ皆こっちから攻めるんだろうと。間接的アプローチを使える人は、その違和感から出発しているというのが、多くの人たちを見た感想ですね。それは頭の中の固有波形とのずれで生じる不協和音なのかもしれません。

    「方法」は間接的アプローチです。
    しかし、この方法を使えるようになるためには、「違和感」から出発することが必要です。
    では、この違和感とはなんでしょうか。
    長沼氏は「違和感」について「頭の中の固有波形とのずれで生じる不協和音」という理系的な?説明をしてくれていますが、文系の私にとってはかえってちんぷんかんぷんです。
    そこで自分なりに考えてみると、思い浮かぶのはアンデルセンの『裸の王様』という童話に出てくる子どものことです。
    「自分の地位にふさわしくない者や、ばか者には見えない不思議な布地」をまとった王様の行列を見て、みんなが「すばらしい衣装ですね」とほめそやしている中で一人だけ「王様は裸だ!」と言った少年です。
    私たちは、子どものころはこの少年のような素直な心を持っているので、大人たちはなんて愚かなんだろうと笑いながら童話を読んでいますが、大人になる過程で、いつの間にか素直な心を忘れて、不思議な布地を売りつける商人や、騙されてそれを買う王様や、すばらしいお召し物ですねとお世辞を言う家来や、行進に歓声を送る民衆になってしまいます。
    とはいえ、私たちは大人になっても心の奥に子どもの心がかろうじて残っています。
    お金や地位といった欲にまみれた私たちの心、マニュアルや専門知識、経験などによって硬い殻のように塗り固められた私たちのペルソナの奥にある子どもの心に問いかけた時に「王様は裸だ!」という笑い声が聞こえてきたら、それが違和感なのではないかと思います。
    だとすると、違和感から出発することは、天才的な資質や感性に恵まれた人たちだけの特権ではなく、私たちの誰もが使える方法になります。

    さて、これで直観的方法の要素がすべて揃いました。

    ①重心の発見、②間接的アプローチ、③違和感からの出発です。

    それでは、次に直観的方法の使い方について、見てみたいと思います。
    目的は石川氏と同じように、長沼氏の方法を学んで、それを自分で使えるようにすることです。
    その練習として、本書の第1章を「方法」を意識しながらたどってみます。

    第1章「資本主義はなぜ止まれないのか」は次のような感想から始まります。
    「それにしても、現代の日本や米国のようにすでに十分な経済的繁栄を遂げているはずの国に住んでいて、ニュースの時間に経済官僚などが『来年度に何%の経済成長を行うには...』などと発言しているのを聞いていると、何かこの人たちは頭がおかしいのではないか、と思えることが多いのではないだろうか。」
    「違和感」からの出発です。
    そして、この違和感はさらに強化されます。
    「資本主義経済がここまで繁栄を遂げて今や環境問題の方が深刻になっているというのに、人間はまだ経済を拡大させねば気が済まないのか、という疑念を抱くのも無理のないところである。」*1
    しかし、これは経済官僚の頭がおかしいからでもなければ、日本や米国の国民が飽くことを知らない貪欲な国民性を持っているわけでもなくて、成長を続けなければならないのが資本主義の宿命だからなのです。
    では、資本主義はなぜ止まれないのでしょうか。
    それは、「金利」というものがあるからだ、と著者は言います。
    「重心の発見」です。
    そもそも資本主義はなぜ止まれないのか、という問題(とてつもない問題!)を自分で考えるために、金利というものを切り口に考えてみよう、という戦略です。
    では、私たちが当たり前と思っている金利とはそもそも何か。
    これを考えるために長沼氏が目を向けるのがイスラム社会です。
    ご存じの通りイスラム社会では金利は禁止されています。
    この金利が禁止された世界、いわば鏡の向こう側の世界から金利というものを考えてみることで、その本質に迫ろうという方法で、これはまさしく「間接的アプローチ」です。

    では、イスラム社会ではなぜ金利が禁止されているのでしょうか。
    もともと活発な商業社会であるイスラム社会では、投資ということは昔から盛んに行われてきました。
    しかし、その際には投資する側とされる側がリスクを同等に分担するという原則が守られているのです。
    「例えばある人物が、砂漠を渡って商売するため隊商を組織しようとしているとしよう。ただ彼自身は、隊商が積んでいく大量の商品を準備するだけの金を持っていないため、誰か金持ちの中で利益を山分けするという条件でこれに出資をしてくれる人間を探そうとしているとする。」
    「そしてその際に、(中略)もしこの隊商が砂嵐で遭難して大損害を出すようなことがあった場合、その損失は隊商を組織した事業家と出資者の間で平等に負担するという約束がなされるのである。」*2
    ところで「これは一見したところ当たり前で、わざわざ書くまでもないことのように見えるが、現代の資本主義で一般的な融資の場合には、そうではないのである。例えば年率5%の利子で金を借りた場合、企業家や事業家は現代的な原則にしたがえば、もし事業が完全に失敗してもその金を利子ごと貸し手に返すべき義務を負っている。」
    「要するに極論すればこの場合、リスクは原則的に借り手側が一方的にかぶって、貸し手側のリスクはゼロであるべきだとされているのであり、例え事業が不可抗力でどんな状況に陥ろうと、貸し手側は利子が明記された証文を振りかざして、それを全額払うことを要求する権利を有している。」
    しかし隊商を企画した事業家の立場からすれば、そんなことは不公平としか言いようがない。
    「自分は砂嵐で死ぬ危険さえ冒しているというのに、絨毯の上に寝そべっている貸し手の側は金銭的なリスクさえ追う必要はないというのである。」*3
    イスラム経済ではこの不公平感を是正するために、商業のリスクは双方が平等に負担すべしと規定されています。
    イスラム社会が金利を禁止している理由の源はここにあります。
    私たちは日ごろ、日本を含めた西欧先進国が最も進んだ社会であり、資本主義が最も進化した経済であると考えていますが、このようにイスラム社会の考え方やシステムを検証してみると、漠然と変わっているとか、遅れているかのように感じていたイスラム社会が、実はより公平で公正な社会をめざすとともにマネーの暴走をいかに抑え込むかを目的に設計された、それなりに高度な「文明」であることがわかってきます。
    そして、長沼氏は資本主義とは、最も進化したシステムというよりはむしろその逆で、そのような高度な「文明」が壊れた時に生じるものだと定義しています。
    本書のテーマは文明の崩壊とともに暴走する資本主義をどうやって遅くするかということですが、それには

    これまでの資本主義の進歩に関する常識を大きく超える新しい経済学が必要です。

    その新しい経済学が示されるのが、第9章です。
    本書のハイライトである第9章については語りたいことがたくさんあるのですが、すでに大きく紙数を費やしてしまったので、次回に譲ることにします。

    *1 この違和感はグレタ・トゥーンベリさんの国連での演説とほぼ同じです。「すべての生態系が破壊されています。それなのにあなたたちが話し合っているのは、お金のことと、経済成長がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。 恥ずかしくないんでしょうか!」 グレタさんは国連やダボス会議で、大人たちに「永遠に続く経済成長はおとぎ話だ!」と叫ぶ現代版の『裸の王様』の少女ではないでしょうか。 そして、そうした場にグレタさんを呼んで話を聞こうという大人たちがいることは、私たちの心の奥に素直な子どもの心が生きていることの証拠ではないかと思います。

    *2 これは現在の資本主義社会でいうと、ベンチャーキャピタルに似ています。イスラム経済はその全体がベンチャーキャピタルのように運営されている経済と言えるかもしれません。

    *3 コロナ危機にともなう非常事態宣言で多くの事業者が休業を余儀なくされていますが、こうした「不可抗力」による厳しい状況の中で、不動産オーナーとテナントの間で従来にない緊張関係が生じています。 こうした状況の中で、契約書に規定がないからという理由だけで家賃の全額を請求する/されるとしたら、大家、テナントともに不公平感を抱かないでしょうか。 イスラム社会の考え方は決して私たちと無縁の遠い国の話ではなく、今のような状況においてこそ真剣に検討されるべき考え方のように思われます。

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