ローマン・クルツナリック(著)、松本 紹圭(訳)
私たちは「よき祖先」になれるだろうか?
この問いかけは今や、かつてないほど切実なものになりつつあります。
というのも私たちは「人新世」と呼ばれる時代―すなわち人類の文明、その経済活動やライフスタイルの影響が地球環境の自己回復能力を超える程までに膨張してしまった結果、人類の生存そのものが危機に瀕するようになった時代を生きているからです。
その最たるものが気候危機です。
世界各地でかつてない猛暑や水害が起こり、その頻度や激しさは年を追うごとに増しています。
これまで地球温暖化に懐疑的だった人たちも含めて、誰もがこの状況が今後も続くとしたら一体どうなってしまうのだろうという不安を抱き始めています。
それにしても、どうしてこのような事態に至ってしまったのでしょうか。
資本主義のせいでしょうか?
自然環境や地球を大事にしなかったからでしょうか?
さまざまな反省から、近年ではサステナビリティの取り組みが始まり、地球環境への配慮が必須とされるようになりました。
ビジネスにおいても多くの企業がステークホルダーとして環境や地球を加えるようになっています。
こうしたことは、無自覚に自然環境破壊を行ってきたこれまでと比べると大きな進歩です。
しかし、一方では、何か違うのではないか、何かが欠けているのではないか、という違和感もあります。
それは、「ステークホルダーとは何か」という問いとも関連しています。
例えば、私たちは地球というステークホルダーに配慮して、地球を守ることなどできるのでしょうか?
もし本当に「地球を守る」ことが目的であるとするならば、『アベンジャーズ エイジオブウルトロン』の超AIウルトロンのように、その最大の敵である人類を消滅させることが答えになってしまいます。
当たり前のことですが、私たちが守ろうとしているのは地球そのものではなく、地球における人類の未来です。
なぜこんな当たり前のことをわざわざ言うのかと不審に思われるかもしれませんが、この当然のことが現実には課題としてまともに取り上げられていないのではないかと感じるからです。
例えば、グレタ・トゥーンベリさんはこれまで国連総会などさまざまな場で「私たちの未来を救うために行動してください」と主張してきました。
しかし、グレタさんに限らず全ての将来世代にとって当たり前のこうした主張に対して、大人たちの反応は、必ずしも芳しくありませんでした。
「もっと大人になりなさい」とか「ちゃんと経済学を学んでから意見を述べなさい」などと上から目線で諭すような発言も多々見られました。
自分たちの子どもたちや孫たちの世代の未来への不安に対して共感できないような人たちが、どうして環境問題についてまともな議論ができるというのでしょうか。
問題の核心はまさにここにあると思われます。
将来世代をステークホルダーとして捉えること。
では、私たちはどうしたら将来世代への共感を得ることができるのでしょうか。
将来世代が私たちとは切り離された、関係のない存在ではなく、私たちと同じ人間であり、私たちの一部であり、それなしでは私たちの存在そのものも意味を失ってしまうような、かけがえのない存在であるという感覚を持つこと...
この問題に正面から向き合おうとしているのが本書です。
私たちは「共感」を通じて自分以外の他者とつながり、他者を思いやることで社会生活を営み、自分以外の誰かの役に立つこと、喜んでもらうことでしあわせを感じることができます。
そうした他者は家族や友人、職場の同僚だったりしますが、私たちは、時には地球の裏側で災害を被って苦しんでいる人達に共感し、行動することもできます。
共感は、身近な人間関係だけでなく距離を超えることができます。
それは、共感に備わる想像力の力によるものかもしれません。
想像力の翼が私たちを遠くの、出会ったこともない人たちのもとへと連れて行ってくれるのです。
ところで、共感は距離だけでなく時間も超えることができるでしょうか?
この問いが著者の直面した課題でした。
「この10年余り、私は共感についての研究や執筆を行ってきたが、その中では、今日の世界において異なる社会的背景を持った人々の立場に立ち、彼らの気持ちや考え方を理解するにはどうしたら良いかということに焦点を当ててきた。
(中略)しかし、私はさらに大きな課題と長年格闘してきた。それは、私たちが会うことができず、その人生をほとんど想像することもできない未来の世代と、どのようにして共感を伴う個人的なつながりを作ることができるかということだ。言い換えれば、空間だけでなく時間を超えて共感するにはどうすればよいのかということになる。この本では、その方法を探索する。」
私たちにとって将来世代への共感を困難にしている最大の要因は、私たちの生きている現代が「病的なまでの短期主義」に陥ってしまっていることです。
産業革命とほぼ同時期に「時計」が発明されて以来、私たちはそれまで人間の存在を自然の一部として感じさせてきた月や太陽の巡り、季節の循環といった悠久の時から切り離され、過去から未来へと直線的に進む時間の中で、ひたすら追いまくられてきました。
さらに、「時は金なり」という考え方が、その生活をますます忙しないものにしました。
そして、今やデジタル化とともにその忙しなさのなか、短期主義は極限に達しつつあります。
1秒ごとに私たちの注意を寸断し奪い取るSNSや、金融市場で行われている0.0001秒単位での超高速取引など、その勢いは止まることを知らないように思われます。
こうした短期主義が私たちに抜きがたい「短期思考」を植えつけてしまっています。
クルツナリック氏は短期思考のことを「マシュマロ脳」(目の前に置かれたマシュマロを食べずに我慢できるかをテストされた子どもたちの可哀想な実験に由来する)と名付け、それに対する長期思考のことを「どんぐり脳」と呼んで、短期思考から長期思考への転換を主張します。
「どんぐり脳」はとてもチャーミングな名称ですが、「どんぐり脳」への方向転換は至難の業のように思われます。
著者はこの困難な課題に挑むために、古今東西の思想家や実業家、政治家をはじめとして、先住民の7世代を敬う思考や日本の伊勢神宮の式年遷宮などさまざまな事例をたずねます。
また、「道徳哲学や人類学から、最新の神経科学研究やコンセプチュアル・アート、そして政治学まで、さまざまな領域を学際的に旅する」ことになったのです。
ちなみに、私のお気に入りは、1850年台のロンドンを襲った大問題、「グレート・スティンク(大いなる悪臭)」に敢然と立ち向かったジョセフ・バゾルゲットという技術者の物語です。
この物語は再生可能エネルギーへの転換を巡る議論を思い起こさせます。
それは、どちらの課題も「できるかどうか」ではなく、要は「やる気があるかないか」の問題だということです。
人は本当にやる気にさえなればかなり厄介な問題でも解決することができる、という勇気を与えてくれます。
近代西洋で生まれ、今や世界中を覆いつつある「短期思考」という悪弊を乗り越え、人類の叡智である「長期思考」へと転換することで、私たちは「よき祖先」になり得るという希望。
それは、「どうにかなるさ」という楽観論、例えば、テクノロジーの発展が解決してくれるだろう、といったものではなく、どんなに困難であっても挑み続けるという「意思」を込めた希望なのです。
今、世の中でいわれている、SDGsやサステナビリティの実践に、何かもやもやしたものを感じている人たちにおすすめしたい一冊です。