Well-being
2022.8.12

活動の原点となった「フロー理論」 働く喜びを考える(1)

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルネス経営とは何か。
「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」というテーマで、産業医と取締役の2つの顔を持つ丸井グループの小島 玲子が解説します。
出典:「日経ESG」2022年1月号 連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」より

目次

    働くことの喜びを考える上で、今再び「フロー理論」が注目されている。丸井グループで私がWell-beingを担うようになったきっかけもフロー理論だった。

    「ストレスなく働くには」という言葉が、世の中では多く聞かれます。医師になりたてのころは私も、ストレスはとにかく避けるべきものと考えていました。

    20年前、産業医として初めて勤めたのは非鉄金属メーカーでした。企業の専属産業医は日ごろから、職場に足を運び、社員が働く様子を詳しく知ることができます。

    着任してしばらくたったころ、私はあることに気が付きました。極めて多忙な中、「いやぁ、大変ですよ」「ストレスばかり」などと言いながら、明らかにイキイキ働いている人がいるのです。例えば、電線の被覆材の品質改善に打ち込む社員や、社運をかけた製品の開発や営業に没頭する社員です。

    そのころ私は、産業医をしながら病院でも心療内科の外来診療をしていました。病院にはさまざまな職業の方が「働くのがつらい」と訪れます。毎週毎週、会社ではイキイキ働く人と、病院では働いて病気になった人と、両極の人たちと接していました。会社でも「上司とうまくいかず眠れない」など諸理由から不調を来した社員の健康面談をしていました。

    おのずと、「人がしあわせに働くとは、どういうことなのか」への興味が増していきました。そこで社会人大学院生になって研究し、産業医の勉強会でも学ぶ中で、「フロー理論」を知りました。

    フローとは、自己目的的(自分がやりたくてやる)、かつ全人的に1つの行為に没入しているときに感じる感覚であり、深い楽しさや喜びを伴います。これは幸せに働くことを考えるうえで、ひとつの鍵になる知見だと思いました。

    フロー状態とは

    心理学の世界では旧来、「人はなぜ心を病むのか」が研究されてきました。そうした中で、米シカゴ大学名誉教授などを務めたM.チクセントミハイ氏は、早くから「楽しさや喜び」について研究し、フロー理論を提唱した、世界的に有名な心理学者です。残念ながら2021年10月、87歳で亡くなりました。

    数十年にわたる膨大な実地研究によると、人が深い楽しみの感覚を感じる時、その時の体験を非常によく似た言葉で表現することが分かっています。仕事をする、山に登る、チェスをするなど活動自体はさまざまですが、年齢や性別、国籍、教育に関係なく、その時感じていることは驚くほどよく似ていると、チクセントミハイ教授は言います。

    彼はその共通の体験をフローと名付けました。「流れ」という意味の英語「flow」が由来です。物事に集中していると自意識が薄れ、まるで何か大きな流れに乗っているような感覚になることから、そう名付けられました。チクセントミハイ教授は自著*¹で次のように述べています。

    「たとえば登山家は凍りつくほどの寒さを感じ、疲労困憊し、底なしのクレバスに落ち込む危険に瀕することもあるが、それでもどこか他のところへ行きたいなどと思うことはないだろう。(中略)ダンサーは、巧くなるために、人間関係や親の立場、また人生の多くの喜びを捨て、その芸術の厳しい練習に全生命をなげうっている。それを行なう瞬間、楽しみは肉体的な苦痛であり、同時に精神的にも負担の重いものになることもあるが、しかしエントロピーの力と衰退を超えて達成感を味わうことができるがゆえに、それは精神を豊かにするのである。楽しみは、振り返ってみて、人生を豊かにし、また未来に立ち向かう自信を与えてくれる思い出の土台となるものである」

    ベストを尽くす幸福

    人間はフロー状態に入ると雑念に囚われることなく集中し、その人の最大限の力が引き出されます。そのため、フローは別名「最適経験」とも呼ばれます。スポーツの世界では「ゾーンに入る」、武道の世界では「無の境地」と表現されることもあります。目の前の課題に没頭することは自己成長を促し、その行為を心の底から楽しむことにつながります。時間感覚のゆがみ、つまり何かに熱中してあっという間に時間が過ぎたような感覚になるのもフロー状態の特徴です。

    研究によって、フロー状態を導く条件も分かっています。目標が明確である、難易度が適切である、フィードバックがこまめに得られる*²、取り組む課題に価値を感じているなどです(下の図)。フロー状態に入る条件がわかっているということは、これを活用することでフローを導きやすい仕事をデザインできるということです。

    ■ フロー状態の構成要素

    202208_esg_1.jpg
    出所:『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ著、世界思想社)

    チクセントミハイ教授は次のように言っています。

    「幸福は自分たちで起こす何かであり、ベストを尽くした結果起こるものである。潜在能力を実現するときに満たされる感情がモチベーションとなって差異化を起こし、進化へと導く」

    私が丸井グループの産業医になった翌年の2012年3月。初めて青井浩社長と話した際、私は自分のバックボーンを通じて人と組織の活性化に貢献したいと言いました。その時、フロー理論が話題になったのは、本連載の第1回でご紹介した通りです。

    ともすると精神論と受け取られがちなフロー理論ですが、これは膨大な実地研究の結果から科学的に導かれた理論です。2012年7月、その内容を当社の「中期経営推進会議」でお話ししました。私が働く人のWell-beingを担うきっかけとなった、最初の取り組みでした。

    チクセントミハイ教授によれば、仕事は最もフローに入りやすい活動のひとつです。にもかかわらず、往々にして私たちは仕事にネガティブな感情を持ち、苦役のように捉えています。それはなぜでしょうか。次回、考察します。

    *¹ 『フロー体験とグッドビジネス─仕事と生きがい』(世界思想社)

    *₂ ここで言うフィードバックとは、他者から与えられるものだけでなく、例えばロッククライマーが岩の状態や現在位置を都度把握するように、今どのような状況にいるかを自分自身が把握できることを含む。

    この記事に関する投稿
    この記事をシェア