Well-being
2022.7.12

Well-beingの根幹要素「運動」 適応的知性に影響する要素(3)

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルネス経営とは何か。 「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」というテーマで、産業医と取締役の2つの顔を持つ丸井グループの小島 玲子が解説します。
出典:「日経ESG」2021年12月号 連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」より

目次

    運動と聞くと、「健康のための習慣」という程度に捉えている人が多いかもしれない。しかし、運動は情動の安定や困難に直面した時の自己変容を支え、より良く生きる基盤をつくる。

    新型コロナウイルス禍の中、自宅で座って過ごす時間が長くなった人も多いかもしれません。ところが、4万8000人を対象にした大規模調査において、運動をしていない人は、している人に比べて新型コロナ感染による死亡率が2.5倍高く、ICU(集中治療室)に入る確率が2.25倍高いとの報告もあります。

    運動は、人間のあらゆる機能に影響していると言っても過言ではありません。適応的知性(変化や困難に対応する能力)に影響する要素をひも解くシリーズの3回目。前々回は睡眠前回は食事について見てきましたが、今回は働く世代が軽視しがちな「運動」に焦点を当てましょう。

    学力1位の理由は「運動」

    米国イリノイ州ネイパービルの中学校で起きた実話をご紹介します。特に学力の高い学校ではなかったそうですが、1999年、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査)という世界的な学力テストで、この学校の中学2年生が理科で世界1位、数学で6位という成績を取ったのです。

    「ネイパービルの奇跡」と呼ばれて全米の注目を集め、ハーバード大学がその理由の調査に入りました。すると、始業前の生徒に最大心拍数の約80~90%の負荷がかかるランニングを課していたことが分かりました。これが成績向上に影響した根本的な要素であると、調査チームは結論づけています。

    最大心拍数の約80~90%というのは、かなりきつい強度の運動です。理科と数学は、この運動直後の授業科目でした。運動直後の3時間程は、記憶力が20%近く向上することが研究で分かっています。

    実はこうした効果は、高齢者でも確認されています。60~75歳の修道女を対象とした研究(※1)で、週3回20~30分の有酸素運動をしたグループでは、そうでないグループに比べて、3~6カ月後の国語と算数の成績が約25%高く、社交性も高まりました。ただし、運動習慣をやめたところ、約3カ月で元に戻ってしまったそうです。

    これらの知見を踏まえて、丸井グループでも2016年、全社員を対象に集団分析を実施しました(※2)。すると、14年度の健康診断時の調査において、「1回30分の汗をかくような運動を週2回以上、1年以上実施している」群は、15年度の業績評価が統計学的に有意に高く、14年度と比べても有意に上昇していることが分かりました。

    ※1 修道院の疫学調査は、皆がほぼ同じ生活習慣で暮らしているため、介入要素の影響分析において信頼性が比較的高いと言われる。

    ※2 正規分布が確認された4160人について重回帰分析を用いて検定した。年齢、職務グレード、性別による偏りを補正し、個別氏名を除いた集団データに基づいて委託先の外部機関が解析した。

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    丸井グループが役員・管理職を対象に実施しているレジリエンスプログラムの様子。人と組織を活性化する支えとしての運動の知識を学び、1年間かけて習慣化する。写真は2019年撮影
    (写真:鈴木 愛子)

    運動と脳細胞の関係

    中等度以上の運動をすると、BDNF(脳由来神経栄養因子)という物質が脳で放出されます。これにより脳の神経結合が促され、記憶力向上や思考力を高めると考えられています。BDNFには脳を修復する機能もあり、認知症予防の面でも注目されています。運動は強力な認知症予防の方法なのです。

    近年まで、脳の神経細胞(ニューロン)は年を取るにつれて死んでいくだけで、新しくは生まれないという見方が主流でした。しかし最近では、年を取っても新しい細胞は生まれており、ニューロンのつながりも新しくできることが分かってきました。ただ、細胞は新しく生まれるのですが、それらは加齢に伴って使われずにほとんどが死んでしまいます。

    脳細胞の生き残りを増やすにはどうすればよいのか。有効な方法は、「努力を要する学習」、あるいは「運動」です。特にランニングなど、息が上がる程度の有酸素運動がより効果的です。数々の研究から、運動習慣は脳細胞の生き残りと活性を高めることが分かってきました。

    運動が自己変容を支える

    仕事にストレスはつきものであり、働く人にとってストレスに対処する能力は重要です。米国心理学会は、科学的エビデンスに基づき「5つのストレス対処法」を提示しています。その1つが「運動」で、息が上がる程度の有酸素運動を週3回(20~30分が目安)実施することを推奨しています。有酸素運動には、強力な抗不安作用があるのです。

    運動と脳の研究領域において世界的に有名なハーバード大学医学大学院のジョン・J・レイティ博士は、自著(※3)において、運動はストレスによる不安やうつ症状を改善するだけでなく、集中力、注意力、やる気をも高めると述べています。

    本連載の第10回「続・『分断』と『調和』を分けるもの」で、変化や困難に対応する適応的知性を高めるには、「痛み+内省=自己変容」が重要であると述べました。

    変化や困難に直面し、自分の従来の価値観や信念が通用しなくなり、それを変える時に私たちは心の痛みを感じるものです。運動は、その痛みを受けとめ、内省する力を育みます。人は古い価値観のまま自己変容しないという安易な道を歩んでしまいがちです。運動による不安の軽減や、脳細胞の活性化による発想の転換という支えがなければ、「痛み+内省」による自己変容への道のりは、より困難なものとなるでしょう。運動が適応的知性を高める本質的な支えとなるのは間違いありません。

    「運動が脳の機能を最善にする唯一にして最強の手段であることは、何百という研究論文に基づいている」と、レイティ博士は述べています。

    ここまで3回にわたって、変化や困難に対応する力を支える根幹要素としての睡眠、食事、運動を見てきました。

    私自身もこの2年間で、産業医兼部長から執行役員、取締役と、立場や役割が劇的に変わり、予想外の変化に自己変容が必要な状況でした。もし、睡眠、食事、運動の大切さを知らず、日々の習慣に取り入れていなかったら、変化に対応できていなかったと思います。この19カ月、私は毎月欠かさず100㎞以上走りました。

    ※3 『脳を鍛えるには運動しかない! 最新科学でわかった脳細胞の増やし方』(NHK出版)