Well-being
2023.9.11

危機をチャンスに換える能力

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「ウェルビーイング」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康で生き生きと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルビーイング経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より

目次

    「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」の対となる、「PTG(心的外傷後成長)」という現象がある。強いストレスを成長に換える人の頭の中では、一体何が起こっているのか。

    前回に続き、ストレスを力に換える人についてお話しします。

    PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉を聞いたことがある人は多いでしょう。強い精神的なトラウマ(心的外傷)体験によって生じる特徴的なストレス症状です。しかし、PTSDの「対になる現象」があることは、意外と知られていません。

    PTG(心的外傷後成長)がそれです。つらく困難な体験で強いストレスを受けたあとに成長することを指します。米国の心理学者リチャード・テデスキ氏とローレンス・カルホーン氏によって提唱されました。彼らは重病など人生の困難な状況と闘ったあと、心理的にポジティブに変化する人々の様子を説明するためにこの言葉をつくりました。

    PTGのポイントは、ストレスから「立ち直って回復する」のではなく、「変化してより強くなる」点にあります。元に戻るのではなく、困難を通じて、新しい考え方や感じ方、行動様式を身に付けるのです。

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    ストレスがさほど強くなければどちらにもならないが、
    強いストレスを受けた後の反応は、大きく見てPTGかPTSDの様相に分かれる傾向がある

    研究で、PTGでは5つの変化があると報告されています。(1)人生への感謝、(2)内面的な強さ、(3)他者との関係(より深く意味ある人間関係を志向する)、(4)新たな可能性(人生や仕事の優先順位が変わる)、(5)精神的な変化(自分の人生に新たな意味や目的を見つける)─の5つです。困難な経験が、人によってはその後のWell-beingな人生につながるのです。PTG研究にはトラウマと呼ばれるような著しい困難体験(自然災害、事件、戦争など)だけでなく、一般に強いストレスを感じる経験全般が含まれます。

    ストレスを通じて成長するには、どのような要素が必要でしょうか。PTGにいたるには3つの要素があると指摘されています。1つ目は「変換能力」です。その経験から得られる意味とは何かを考え、ただつらいだけでなく自分にとって成長の機会であると経験の意味付けを変換するのです。2つ目は「知恵」です。ほかの人は困難をどう乗り越えてきたか、教育や本、人からの伝承によって知ることです。3つ目は「人からの支援」です。中でも、鍵となるのは「変換能力」です。この能力が発揮されるプロセスを詳しく見てみましょう。

    「変換能力」発揮の3段階

    世界的に著名な心理学者チクセントミハイ氏も、変換能力(逆境や困難をやりがいに満ちたものに変える力)について研究しました。彼は、人生の絶望的な状況でもその意味を考え、挑戦課題を見つけて目標を設定し、「フロー体験」へ移行するプロセスには3つの段階があると著書で述べています。

    ステップ1は、自己防衛からの脱却です。社会の中での自分の序列や優位性、「人からこの状況をどう見られているだろうか」といった社会的な自我意識から抜け出すことです。ステップ2は、環境との調和です。今そこにある外部環境に素直に注意を向けるのです。このプロセスを経て、ステップ3で新たな目標を見出します。

    丸井を発展させたPTG

    これらのステップを踏んで変換能力を発揮した例として、いつも私の頭に浮かぶ逸話があります。

    1954年5月、「中野マルイ」の2階は多くの人でごった返していました。まだ家庭にテレビが普及していなかった時代、ボクシング世界チャンピオンの試合を見るためです。あまりに大勢の人が詰めかけたので、床が抜ける事故が起きました。記者が写真を撮ろうと次々に店に入ってきます。

    27_02.jpg1947年当時の中野マルイ

    丸井グループ創業者で当時社長だった青井忠治氏は「私の店を勝手に撮るな」と怒って記者を追い払い、メディアに叩かれました。自然な感情ではありますが、自分の店を悪く言われたくないという自己防衛の気持ちがあったと思います。

    しかしこのあと、忠治氏は事故対応に万全を期しつつも、外の環境に注意を向けました。すると、都内でも未だ近代的な造りのデパートがないと気づきます。米国視察で見たような、どの階段からも別のフロアが見渡せる、明るく近代的な店舗をつくるチャンスと考えました。幹部社員が「床を早く元に戻して営業を再開しましょう」と言う中、原状復帰ではなく、未来の発展に向けた目標を見出し、行動に移したのです。

    海外に「Big Rock First」という言葉があります。バケツに、大きな岩・ジャリ・砂を入れる場合、先にジャリや砂を入れると大きな岩が入りません。大きな岩を先に入れるのが肝要です。重大な困難はしばしば、「大きな岩」、つまり日頃はできないような大規模な変革を実行するチャンスとなり得るのです。困難をチャンスと見るか、防衛するかの分かれ道です。

    そして中野マルイは生まれ変わり、来店客数が大幅に増えて埼玉や神奈川からも多くの人が訪れる人気店となりました。あとになって「あの困難があったからこそ、今の成長があった」と言える状態になること、それがPTGです。こうした挑戦マインドは2代目社長の青井忠雄氏にも受け継がれ、「素直、感謝、挑戦」という言葉は、近年ことさら強調していないにもかかわらず、今の丸井グループ社員の多くが心に留め置く言葉となっています。

    困難の中で心理的なエネルギーを統制し、意義ある目標を見出して挑戦できる人が、未来を創っていけるのだと思います。最後にチクセントミハイ氏の言葉を紹介します。

    「苦悩に対する意味付けの仕方を人々が自ら選択すると仮定するなら、建設的な反応を正常なものとし、神経症的な反応を、挑戦に応じることに失敗したもの、フローする能力の衰退と解釈することができるだろう」

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