Well-being
2024.4.11

「打席数」をKPIに

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「ウェルビーイング」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康で生き生きと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルビーイング経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より

目次

    変化の激しい環境で価値を生むには「挑戦」と「学び」のサイクルを高速で回すのが肝要だ。丸井グループは挑戦と前向きな失敗を奨励する文化を育むために、「打席数」を行動KPIとした。

    どうやって創造性を高め、価値を生むのか。『失敗の科学』の著者マシュー・サイド氏は、同著で次の実験を紹介しています。

    陶芸クラスの初日、生徒は2組に分けられ、一方は作品を「量」で評価し、もう一方は「質」で評価すると告げられました。量のグループは、最終日に全作品を提出し、使用した粘土の総重量が一定水準より多いか少ないかで評価されます。質のグループは、最終日に自分で最高だと思う作品を1つ提出します。

    結果、興味深い事実が明らかになりました。全作品中、最も「質」の高い作品を出したのは、「量」を求めたグループだったのです。量のグループは、次から次へと作品をつくって試行錯誤を重ね、粘土の扱いがうまくなっていきました。対して質のグループは、最初から完璧な作品を作ろうとして、考えることに時間をかけ過ぎました。「後に残ったのは、壮大な理論と粘土の塊だけだった」と実験者は述べています。

    生物と実社会のアナロジー

    早く実践に移して試行錯誤するプロセスは、近年広まったリーンスタートアップ(小さく始める)やアジャイル開発といったアプローチに通じます。検証と修正をくり返し、進んで失敗をして多くを学ぶのです。

    実は、人間の免疫システムも同様のプロセスを持っています。新たなウイルスなどの病原体に対して、いきなりピタリと型が合致する抗体はつくれません。もしも生物が、実社会の多くの組織と同じようなアプローチを取っていたらどうなるか。その脅威を「しっかりと分析し、考え抜いて」質の高い抗体を設計していたのでは、その間に病原体がどんどん増殖して対応が間に合わず、生物は死んでしまうことでしょう。

    実際はそうではなく、すぐに実践プロセスに入ります。人間の体は、高速で試行錯誤をくり返し、細胞の突然変異を起こす確率を高めるという創造的な仕組みを持っています。

    病原体が侵入すると、すぐに免疫B細胞が細胞分裂して抗体をつくります。B細胞は、細胞分裂に通常必要な12時間よりも非常に速く、6~8時間ごとに分裂します。B細胞の複製は多くの遺伝子変異を起こし、そこから多様な性質を持つB細胞が作られます。これらの中で、病原体と親和性の高い抗体を産生するB細胞だけが生き残って増殖します。

    この高速のプロセスは、免疫学の世界で「親和性成熟」と呼ばれ、生物が未知の脅威に対応する強力な手段となっています。

    未知の病原体の増殖という「時間との闘い」の中で、強みが異なる免疫物質が協力して働くこともわかっています。まだ質の高い抗体ができる前の段階では、親和性は弱くても5つの結合部位を持つ「免疫グロブリンM(IgM)」が出てきて病原体と何とか対峙し、次に免疫グロブリンG、免疫グロブリンAが出てきます。

    異なる強みを持つ者が同じ目的に向かって能力を発揮し、高速で試行錯誤をくり返しながら、やがて脅威を乗り越える力が生まれる。生物と実社会の興味深いアナロジーです。

    失敗を認め、挑戦を促す

    丸井グループは10年以上かけて、社員の主体性を高める企業文化をつくってきました。例えば、プロジェクトへの参画などあらゆる事柄を社員の「手挙げ方式」にしました。自ら手を挙げた社員の割合は85%に上ります。

    今後は、多くの挑戦をして早く失敗することで成功のノウハウを蓄積し、イノベーションを創出し続ける「企業文化2.0」をめざします。つい十数年前まで上意下達の気風が強く、全社調査で挑戦意欲の高い社員は未だ約半数です。そこで、「失敗を許容し、挑戦を奨励する」文化を育むために、行動KPI(重要業績評価指標)として「打席に立つ数」や「試行回数」を設けます(下の図)。

    日経ESG34_01.jpg

    失敗を許容し挑戦を奨励するための行動KPIとして、「打席数」や「試行回数」を導入した
    (出所:丸井グループ)

    現在、働き方と組織のイノベーションに取り組んでおり、「応援投資」など社会的インパクトと利益が両立する事業が生まれています。応援投資は、投資額の一部が途上国で女性の就労支援に使われる仕組みです。

    2022年に日本の事業会社で初めて「デジタル債」を活用したソーシャルボンド(資金使途を社会課題の解決に限定した債券)を発行し、募集金額の2億円を大きく上回る35億円の申し込みがありました。3万3000人の就労支援につながり、申し込み者の「エポスカード」利用額は1.3倍に増加しました。社会貢献と資産形成を両立させる応援投資は、収益向上にも大きな効果が見込まれます。

    これはリーダーの呼びかけに応じた社員が、組織の壁を越えて自主的に集まり、社外の専門家と連携して進めた事業でした。こうした働き方を当たり前にしようとしています。「ソーシャル領域のイベント創出」など社会的インパクトと利益を両立させるテーマを複数設定し、手挙げで集まったメンバーが活動しています。「挑戦の打席に立ち、バットを振る」公認イニシアティブと呼ぶこの取り組みを拡大しています。

    2つの罠に注意

    挑戦のプロセスで注意したい点が2つあります。1つは「マウントステューピッド(優越の錯覚)」です。新たな領域で一段階進み、まったくの素人からアマチュアになった時に陥りやすいマインドを、組織心理学者のアダム・グラント氏はこう名付けています。少ない知識を基に意見を述べたり、判断したりしていると、わかった気になってしまい試行錯誤から得る学びの感度が鈍くなるのです。

    もう1つは、「コンセプチュアルディスカッション(本質的な議論)」です。大きな目的はあっても、個々の施策がそこにつながっていない場合があります。例えば「社員の主体性向上」を目的に掲げながら、指示命令型のまま取り組むケースが挙げられます。メンバー同士で頻繁に、「本当にめざす目的に向かっているか」「長期的には失敗につながる成功になっていないか」など、本質的な議論をするのが大切です。

    結びに、19世紀に活躍した米大統領セオドア・ルーズベルト氏の言葉を紹介します。「決して間違わない人とは、何もしない人のことである」

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